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馬場辰猪 詳細履歴

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2016410日 制作中)

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1850年(嘉永3515日、西暦1850624日)

  高知藩主山内容堂の臣であった馬場来八(文政6年生)と寅子(文政13年生)の次男  として、土佐国高知中島町西詰(通称金子橋)に生まれる。

1862年(文久2) 

  母より「いろは」を習う。

1863年(文久3

  藩校文武館に入る。文武館は長い伝統を持っていた。八代藩主の豊敷(とよのぶ)が幕府の儒学奨励の方針に従って藩校として教授館をもうけ、宝暦1011月に開館した。その後の時代の変化にともない、士風を確立する必要もあって、文久2(1862)に文武館と改め、開校された。

1864年(元治1

  大阪に出たが、3カ月で高知にもどる。父と兄の失脚のため、家禄を召し上げられ、一家は辰猪だけを残して幡多郡四万十川以西へ逃れた。

1865年(慶応1

  家督をつぐ。また、この年の初め、藩校文武館に再び入学。文武館は慶応2(1866) に致道館と名を改められた。15歳から29歳までは文武を必修とし、30歳から39歳までは文武のうち好むものを選択して毎月一定の期間修練をさせていた。明治57月の廃校まで土佐藩士の教育に大きく寄与した。

1866年(慶応2旧暦41日)

  藩の船に乗る。機関士の鉛子氏連は叔父にあたる人物である。

1866年(旧暦4月下旬)

  江戸に着く。

1866年(旧暦528日)

  江戸留学の藩命を受けて江戸におもむき、鉄砲洲にあった中津藩邸の福沢塾(後の慶應義塾)に入学し、政治史、経済学を学ぶ。塾頭の小幡篤次郎に熱心な学習態度を認められる。

1867年(慶応35 (旧暦313日)

  蒸気機関学の修業のため、藩費留学生としてイギリス留学を命じられる。主として英国法とローマ法を修めたが、かたわら政治ならびに社会学も研究する。当時の英学は国防の必要性から生まれた。それは実用の学問で、文明開花の学問であった。

1867年(旧暦の1226日)??

  世情が不穏になったため、いったん高知に帰る。

1868年(慶応4)(旧暦の1月)

  京都で土佐藩の兵を含む東征軍の慶喜追伐の動きを見るが、軍には加わらず、高知に  戻る。

1868年(明治1

  藩費により蒸気機関学の修業のため長崎に赴く。長崎は蘭学の発祥地であるばかりか、英学の発祥地でもあった。オランダ人宣教師 Rev. Guido Fridolin Verbeck (1830-1897) について英語を学ぶ。彼はアメリカで神学を修め、日本ではフルベッキと呼ばれ、日本語もよく話し、教授法も巧みであったという。安政6(1850) S. R. Brown, Charnning Willimas, J. C. Simmons らとともに来朝し、長崎の済美館で英語を教える。大隅重信の信任が篤く、佐賀藩が致遠館という英語学校を開いた時、教授として招聘される。ただし、馬場辰猪が彼から教えを受けたのはわずか数箇月であったと思われる。

1869年(明治21

  長崎にいること9か月で修学に適してないと思う。おりしも、同藩の命を奉じて当地を訪れていた岩崎弥太郎に請うて神戸に渡り、大阪を経て、再び東京にもどる。慶応義塾では、生徒として学ぶかたわら教師を兼ね、『ハイスクール地理書』『クワッケンポス氏窮理書』の素読を受け持つ。そのかたわら、歴史書、ウェーランド経済学、哲学書などを読む。その当時の慶応義塾では、次のような教科書が使われていたようである。

読本 ウィルソ、ユニオン、初歩としてはウェブストルのスペリングブック文典

   クワッケンボス、ピネオ、モルレー

歴史 パーレー万国史、クワッケンボス米国史、グードリッチ英国史、ヒューム羅馬史

地理 ゴールドスミス、ミッチェル、コルネル

窮理 クワッケンボス

経済 ウェーランド

1869118

  実弟の馬場孤蝶(英文学者、翻訳家、随筆家)生まれる。

1869817

1870年(明治3418

  幕末期の侍達は、いやというほど西欧列強の進んだ物質文化を見せつけられた。そこで、「広ク知識ヲ世界ニ求メ」る意欲は極めてつよく、海外への遣使や留学生を広く世界に送りだした。この面においても西南雄藩が積極的であった。馬場辰猪は藩から洋行を命ぜられる。同行は、真辺戒作、国澤新九郎、深尾貝作、松井正水の4人で、真辺戒作と国澤新九郎は法学、深尾貝作と松井正水と馬場辰猪は海軍機関学を修得するように定められた。横浜を出帆し、アメリカ経由でイギリスに渡る。

1870年(旧暦の721日)

  馬場辰猪は、藩命により藩費生としてイギリス留学に出る。アメリカ船パシフィック・メール号で横浜から出発。アメリカ経由でイギリスに渡る。

1870年(旧暦の9月末)

  ロンドンに到着。チャーリング・クロス・ホテルに滞在。イギリス人牧師ダニエルに伴われ、ロンドンの西方約100マイルにあるウィルトシャー州チペナンの郊外ラングレーに移る。主として英国法とローマ法を修めたが、かたわら政治ならびに社会学も研究。なお、ロシアの公使が在留の日本人を招待した席で、公使と議論のすえ取っ組み合いとなり、即座退去を命ぜられる。このころ、ロンドンには多くの日本人留学生がいたにもかかわらず、お互いに冷淡で親交を欠いていた。彼はクラブを組織し交情をふかめたいと考え、「日本留学生会」を組織する。ゴールデン・クロス・ホテルで開会式をあげ、その場で馬場辰猪は開会の辞を述べる。

1871年(明治4

  イギリス留学中、土佐藩イギリス留学生らの団長を務める真辺正精と決闘を行い、真辺を負傷させている。

1872年(明治5

1873年(明治6

  条約改正のためロンドンにきていた岩倉全権大使一行と出会う。その時、請うて政府の留学生として法律学を学ぶこととなる。明治3年から6年にかけてワシントンの初代公使をした森有礼(明治18年に、伊藤内閣において我が国初代の文部大臣となる)は極端な英語崇拝者で、英語を国語とし日本語を廃止しようとした。この国語改革案に憤慨して、英語で日本語文法の入門書 (『日本文典初歩』Elementary Grammar of the Japanese Language, with Easy Progressive Exercises) をロンドンにて著す。この書は、英国社会学協会会長のホートン公に捧げられる。ホートン公は感謝の手紙を馬場辰猪に送る。

Dear Sir,

?? I Have to return my best thanks for the beautiful present you have made me,and the honour you have done to my name in associating it with the great intellectual alliance of East and West. If at any time your travels being you to Yorkshire I beg ou will do me the pleasure of having me a visit. I remain,

?        ? yours sincerely and obliged,

                     ????????? Houghton.

1874年(明治71012

  この日付で福沢諭吉は馬場に書簡を送る。「益御清安被成御座奉拝賀。此度小泉中上川龍動え罷越候。差向何と申執行の目的も無之候得共、私に朋友共に相謀るに、方今日本にて兵乱既に治りたれどもマインドの騒動は今尚止まらず、此後も益持続すべきの勢あり。古来未曾有の此好機に乗じ、双習の惑溺を一掃して新しきエレメントを誘導し、民心の改革をいたし度、も今の有様にては外国国際の刺衝に堪不申、法の権も商の権も日に外人に犯され、逐には如何ともすべからざるの場合に可至哉と、学者終身の患は唯この一事のみ。政府の官員愚なるに非ず、又不深切なるに非ず、唯如何ともすべからざるの事情あるなり。其事情とは天下の民心即是なり。民心の改革は政府独りの任にあらずも智見を有する者は其任を分て自ら、、、、ナショナリチ」

1875年(明治8121

  イギリスより帰朝し、故郷土佐に向かう。

1875123 (旧暦223)

  土佐に帰り、家族と会う。この時、藩主の山内侯に再度のイギリス留学を申し出たと  思われる。

187537

  弟(善久衛)と妹(駒子)を伴い上京。弟を慶応義塾に入れ、妹を福沢諭吉に預ける。帰国してみると、今や自由民権の運動は全国に波及し、国会開設の世論は抑えることができないほどである。そこで、馬場辰猪はまずは民衆の知見の開発に務め、健全な世論を築き上げることが急務と考える。小野梓がイギリスより帰国して設立した共存同衆が有名無実となっていたので、小野梓・金子堅太郎・菊池大麓・金子堅太郎・鳩山和夫・島田三郎・三好退蔵・増島六一郎らと共存同衆を再興する。各地に赴き演説をし、民権運動に活躍。

1875325

  共存同衆において、「本邦女子の有様」と題して演説。

18754

  上記の演説を『共存雑誌』(第5号)に掲載。

187543

  再びイギリスへ発つというので、共存同衆の会員が売茶亭に会し、送別の宴を開く。宴会は総て洋式で、盛会なり。その宴に集まった社員は小野梓をはじめ15名で、客員は16名である。この際、妹の駒子もその宴会に出席するが、田舎娘で洋式の礼儀作法を知らぬため、妹を咎めたといわれている。

18754

  岩倉使節団の一員として再び渡英し、横浜より再びイギリスに向かう。航路は西回りである。

187568

  イギリスに着く。以降、再びロイヤーズ・チェンバーに通い英国法を学ぶ。このころ、政府留学生となる。

187510

  ブライトンで開かれた「社会学協会」に出席し、日本における治外法権制度について  演説。

18751027

  The English in Japan: what a Japanese thought and thinks about them (London: Tr?bner & Co., 16pp.) をロンドンで出版。日本在住のイギリス人が偏見を持っていると批判し、「一切の偏見を去って日本を観察し、、、公正無私の判断を下せ」と述べる。

18751229日頃

  前述の本の一部を訳出し『郵便報知新聞』に載せるが完了せず。

1876年(明治91

  古事記の英語訳できあがり、英国人類学協会において講演。

18763

  ロンドンで開かれた「人類学協会」に出席し討論に参加。

1876928

  The Treaty between Japan and English (London: Tr?bner & Co., 28pp.)(『日英条  約改正論』)をロンドンで出版する。そのパンフレットの中では、小国である日本もまた欧米の強国と対等な立場を要求する権利があることを主張。

18761010

  上記パンフレットを英国緒政治家に送る。

1876年末

  この年、健康を害す。

187610

  The English in Japan: what a Japanese thought and thinks about them(『日本のイギリス人』)をロンドンで出版する。日本在住のイギリス人が偏見を持っていると批判し、「一切の偏見を去って日本を観察し、、、公正無私の判断を下せ」と述べる。

1877年(明治10226

  迷い犬を哀れみ、連れかえり育てる。日本からの送金もなく、生活は苦しい。

18771028

  第2次『民間雑誌』に訳載されるが、完結せず。(これは、明治231月、大阪の興文館から、山本忠礼と明石兵太郎によって『条約改正論』として出版された。)

187817

  土佐藩留学生の真辺戒作と口論し、彼の頭部を傷付け逮捕される。

187828

  前記の事件で、50ポンドの保釈金で処罰猶予となる。

1878314

  ロンドンを去り、パリ経由で帰国の途につく。この留学で辰猪の思想の中核となる言論思想の自由、「公議輿論」の重要さを学んだといわれる。

1878325

  マルセイユより船に乗る。

1878年(明治11511

  イギリスより横浜に帰着する。帰国してみると、今や自由民権の運動は全国に波及し、国会開設の世論は抑えることができないほどである。そこで、馬場辰猪はまずは民衆の知見の開発に務め、健全な世論を築き上げることが急務と考える。小野梓がイギリスより帰国して設立した共存同衆が有名無実となっていたので、小野梓・金子堅太郎・菊池大麓・金子堅太郎・鳩山和夫・島田三郎・三好退蔵・増島六一郎らと共存同衆を再興する。各地に赴き演説をし、民権運動に活躍する。

1878514

  東京の紀尾井坂で内務卿大久保都利通、石川県の士族島田一郎らに襲われ死す事件が  起きる。この事件で、人民が次第に政治上の重要となる。

1878年(明治11年)52627

  両親が弟の勝弥(馬場孤蝶)と姪(安子)を伴い上京する。

18789

  神田の錦町にあった学習院に、週2回くらい教えに行く。この年、父は月給8円くらいで東京帝国大学医学部門衛となる。両親は主として本郷に住み馬場辰猪は別居。

1879年(明治12

  帰朝後のある時期、司法省などから依頼されて、法律書の翻訳など(『英国証拠法述  義』)に従事。また、同じ土佐出身で、共に英国留学した星亨や小野梓らと共に『朝野新聞』や『自由新聞』などで中江兆民らと共に自由民権運動を日本に紹介し、共存同衆・交詢社の活動に参加。このころ、西南戦争の勃発に乗じて、挙兵による大久保利通政権の打倒を策して失敗。

18791

  『法律一斑』(四六判、71ページ)を慶応義塾出版局より出版。金子堅太郎らと共存同衆を再興して民権運動に活躍。また、『共存雑誌』 は明治98月第13号のあと休刊していたが、小野梓らとその再建をはかる。

1879319

  共存同衆での演説「平均力の説」を、『共存雑誌』(14) に掲載。

187957-18803

  共存同衆での演説「羅宇摩律略」を、『共存雑誌』(20232831485662) に掲載。

18799

  交詢社設立準備会が社則立案委員に選ばれる。

1879917

  「物は見る所に依て異なる」を『共存雑誌』(3839号)に掲載。

18791022-11

  「親化分離の二力」を『共存雑誌』(424346号)に掲載。共存同衆を再興。この年から翌年にかけ、共存同衆の金子堅太郎・島田三郎らと共に『私擬憲法意見』を起草した。「日本人学生会」を組織し、法律学による啓蒙活動に従事し、国友会を基盤に自由民権運動の指導者となる。

1880年(明治13

  交詢社創設委員として社則規則などに参画。

1880年(明治13125

  交詢社発会式にて常議員に選出される。

188025

  『交詢社雑誌』の第1号が発行される。

188042

  集会条例が公布される。

188045

  集会条例施行。これにより、共存同衆は大きな影響を受け終末期の道をたどり、組織的には従来の幹事専制から評衆合議制となり主導権が小野・馬場両者から官僚保守派に移行する。

18805

  『共存雑誌』は第67号を最終号として事実上廃刊するが、共存同衆での演説はなお続  く。

1880629

 ? この日付で福沢諭吉より、 明治会堂建設に関して相談会を持ちたいとの書状をもらう。188072

  社中の者78人とともに、福沢諭吉宅にて5時よりの会合に参加したと思われる。

188074

  東京両国の中村楼で三田政談社は演談討論政談会を開く。馬場は初めて参加し演説。政談社では「演説討論政談会 於両国中村楼 来ル七月四日午後一時ヨリ開会 演説者姓名 ○岡崎亀雄 ○永井好信 ○林欽亮 ○猪飼麻二郎 ○高木喜一郎 ○犬養毅 ○箕浦勝人 ○波多野承五郎 ○藤田茂吉 ○馬場辰猪」と、五大新聞に7 1 日から3 日に渡って広告を連載。その反響は凄まじく、当日は正午頃より聴衆が多数押しかけ門前に山となって、2 時ころまでに千二百余名におよび札止めとなった。大盛況で 楼上は立錐の余地なく、聴衆の騒々しさに論者の声が聞えぬとの苦情で、途中から演壇を中央に移した。討論会は国会開設論の圧倒的賛成で午後6 時半ころようやく閉会。なお、この会は当初、慶応義塾の出身者が多かったが次第に減少し、11月初めには「政談討論演談会」と名称が固まる。

188084

  夏休みみに東京を離れる。 「八月四日(水)東京丸で田中とともに六時横浜を離る。二、 三の友人同行。天気よし。十二時,船動き始む。」(馬場日記)横浜港を出帆, 6 日に神戸港に到着、下旬にかけて京都や大阪方面に遊説旅行。

1880820

  馬場たちは、大阪府北区で演説会をもつ。

1880821-18813

  「商律概論」と題して商法入門の論文を『東海経済新報』(1-19号)に寄稿。本誌は8 21 日に創刊されたが、翌年3 5 日の第19号まで連載した。同誌は豊川良平の主宰で保護賜主義を標榜。

18809

  馬場は共存同衆から三田政談社へ主要な活動の舞台を移し、9 月ころから本格的にその運動に着手。

1880912

  馬場のプランになる912日の政談演説会ば一部の仲間の非協力のため通常の集会が出来なくなり、馬場派だけで会場も常設の井生村楼でなく、彼の本拠の共存課言艟で開催された。同月11日から12日の間に朝野、郵便報知、東京横浜毎日、東京日日各新聞に掲載された広告によると「政談演説会 日吉町共存同衆講堂ヲ借受開ク 九月十二日午後二時ヨリ、切符ハ同所デ渡ス 元田直、大石正巳、奥宮健之、西村玄道、佐伯剛平、田口卯吉、馬場辰猪」とある。その出演者は後の国友会の有力メソバーで、馬場派の事実上の旗上げとも思える決起集会だった。

1880917

  片岡健吉に手紙を書き、立志社員に学問と職業を身につけることを望み、板垣退助の  上京を希望する。

1880925

  この土曜日の「政談演説并討論会」は慶応派の波多野らの譲歩と妥協工作があったものか、共存衆館で会名が変更されただげで、両派合同で開会された。馬場派以外には、波多野と新たに竹内正志、森下岩楠の三田政談社の人々が登壇した。ここで、馬場は演説をする。

1880929

  栃木県宇都宮方面へ遊説。この日、栃木の政治結社有朋社の招待で(同8月に早川兵太などが結成)室町定願寺において政談演説会に出席。馬場は「結合論」を、そのほか波多野(承)、原猪作、江口高達ら同志も演説。同地未曾有の盛会で聴衆四百人を集め、夜も8 時から12時まで馬場の「競争論」など熱気温れる集会が催される。

18801010

  この日の「政談演説討論会」は会場を井生村楼に復帰し、ここで演説する。当日、初めて板垣退助と中島信行ら立志社の指導者が参列して光彩を添えた。これは三田政談社が代表的な都市民権派言論結社として公認されたことを意味するといわれている。

18801013

  上野の精養軒において、嚶鳴社主催の板垣退助歓迎会に出席し演説する。板垣退助歓迎会が嚶鳴社の主催で上野精養軒においてとり行われ、首都の民権家達が結集。馬場も肥塚らと並んで代表者の一人として演説。

18801023

  この日は雨天であったが「演説討論政談会」は聴衆が充満。大石、奥宮両名の演題が不都合との理由で、臨席警官から不許可となるトラブルがあって遅れたが、馬場の「外交論」を皮切りに同志の竹内、門野幾之進、田中精一、南摩f次郎、波多野、森下、高島小金治、岡崎亀雄、江口高達、武藤常徳と三田派が次々と演説した。続いて休憩の後に討論会に入り、「我国々会開設ノ後宰相ノ国会ヨリ命スヘキ乎, 将タ何レヨリ命スヘキ乎」と「県令ハ地方人民ノ選挙二任スヘキ乎,又大政府ヨリ命スヘキ乎」の2 題を回って賛否両論の活発な討論が行われた。ところが, これが三田政談社にとって最初の弾圧であった影響からか、会の運営方針や主導権を巡っての三田派の中立穏健路線と馬場派急進路線の対立抗争が再燃。馬場派の優勢裏に推移し三田派が退潮。

18801115

  馬場は板垣邸で植木枝盛と会う。その直後、植木は馬場の演説会を傍聴。両者の交流が現われ始める。

18801123

  11月初旬までには決着が付き、馬場は三田政談社の主導権を確立したと推察される。朝野新聞の報道によると「有名な馬場辰猪が担当して開設さるる政談演説討論会の会員は是れまで、慶応義塾出の人々計りなりしが、此度申合せて改めて弘く世間の雄弁家を招き倶に演説を為すこととなし」とある。この日の「政談演説討論会」から組織を拡大し義塾以外の一般演説家にも門戸を開放。そして同会に新しく末広重恭と原猪作とが参加。会はますます発展するが、両派の内部対立と抗争は依然続きもはや修復は困難となる。

18801127

  この日の「政談演説討論会」の演説者は、三田派が武藤、江ロ、高島、原、波多野の5 名で、馬場派が本人と奥宮、西村、竹内、大石の5 名である。形の上では両派合同で開催。以降、馬場支持の三田派の人々以外は全く姿を見せなくなり、この時点で後の国友会の構成員がほぼ固定化した。三田政灘主流は馬場の方針に反対し事実上脱退し、新築中の明治会堂を拠点とする新しい政談演説会の設立準備をすすめる。

188012

  このころ、三田政談社は12月中旬に完全に分裂したと思われる。

18801226

  「政談演説討論会 於日吉町共存同衆 十二月廿六日午後一時より(鰐聴無料)出席人人高嶋小金治、奥宮健之、竹内正志、馬場辰猪、末広重恭 日吉町一番地馬場辰猪」馬場が主催者として個人名で、会場も同衆で馬場派だけの会を継続。当日の集会の模様を日記に「十二月ご十六日(日)共存同衆での公開演説。聴衆七〇人ばかり。私はこれらの学生を失望させはしなかったかを憂る」と記す。 準備不足や年末のため、聴衆は学生など約70人の寂しい集会で不成功だった。なお、「外交論」と題する演説(『嚶鳴雑誌』第26号、18801225日)において、外交の基礎を人民の世論に置くことと、国際関係を平和的に処理していくためには人民同士の国際的関係が必要であることを強調する。

1881年(明治1419

  「亡徴論」と題する演説を行う。

1881130

  演説を行う

1881211

  演説を行う

1881219

  演説を行う

1881224

  共存同衆の臨時講談会にて「異説論」をぶつ。

1881313

  「厭制政府の滅亡は一部分の改革を以て救じ難し」の演説を行う。

1881319

  佐伯剛平とともに、長野県小諸町有志の招へいに応じて政談演説会を開く予定が、警  察署よりにわかに停止される。馬場辰猪が演説を禁止されていたので、懇親会の席上では佐伯剛平が「革命論」を演じたが、そのため拘引される。

1881320

  この日の懇親会の席に警官が臨席していたので、佐伯剛平拘引の非を詰め寄り追い払  おうとしたので、岩村田警察署に1週間拘留される。

18814

  「三田政談社」を基礎に「国友会」が創立。首都の代表的都市民権派言論結社として嚶鳴社や明治政談演説会などと拮抗し、立志社や国会期成同盟とともに自由党結成の主要搆成母体となった。

188149

  東京で「政府は常務と政略とを区別すべし」と題して演説をする。

1881420

  東京の共存同衆臨時講談会にて「書生論」をぶつ。

1881425

  慶応義塾の関係者である矢野文雄・小幡篤次郎らと私擬憲法案を起草し、『交雑誌』に発表する。

1881430

  東京にて「国会解説の後ち政略に最大関係を有する政部は何か」の演説をする。

188155

  佐伯剛平と共に山形遊説(55-29)に向かう。

1881511

  特振社演説のため山形に到着する。

1881512

  山形籠旅町小林為次郎にて茶話会親睦会があり、佐伯剛平とともに出席し、その席上  演説を行う。

1881513

  午後730分より上山町旭座にて「異説論、分権論」と題して演説を行う。

1881515

  同座にて「主治者は何の注意すへきか」と題して演説を行う。

1881515

  同座にて「厭制政治は何を恃にするか」と題して演説を行う。

1881517

  同座にて「分権論」と題して演説を行う。

1881518

  東英社員も合流し、午後3時より大懇談会が開かれた。

  地蔵町宝寶童寺にて討論談話会があり、その場にて「鉄道論」を述べる。その後、懇談会がある。

1881522

  米沢立町常盤座にて「世論の生長」と題して演説をする。

1881523

  米沢立町常盤座にて「世論の生長」と題して演説をする。

1881524

  米沢立町常盤座にて「世論の生長」と題して演説をする。

1881525

  米沢町荒町松川町にて、馬場辰猪と佐伯剛平のために懇談会がもたれる。

1881526

  上ノ山小芳亭(元本陣)にて政談演説会がもたれ、「亡徴論」と題して演説をする。

1881527

  同地にて有志による懇親会がもたれ、「交際論」をぶつ。

1881528

  天童にて演説を行うが、宿泊中に金五百円、衣装、金時計を盗まれる。

1881529

  東村山軍谷地(やち)の慈眼寺にて午後3時より「離合論、一国の独立は人民の自由に在り」と題して演説をする。

1881年(明治145月〜6

  私考憲法草案を『郵便報知新聞』(議会開設即会論をとる民権派系の新聞)に連載する。

1882年(明治1571

  『自由新聞』発行の主旨の本論を担当し書く。

188179

  東京にて「国会開設後の宰相は如何なる人を以て適当とするか」と題して演説をする。1881724

  東京にて「国会開設後の政党は如何なるものより成り立ち為す乎」の演説をする。

1881814

  東京にて「国会開設後の司法卿は如何なる人を以て適任と為すや」をぶつ。

18818

  ひそかに時期の到来を待っていたかにみえる馬場辰猪は、ついに意を決し、大石正巳・末広重恭・田口卯吉・波多野承五郎らと「政談討論演説会」を「国友会」に改め一つの政治結社を作る。また、朝野新聞社内の「馬耳念仏社」発行の『溺濘草談』を『国友雑誌』と改題し、前者の号数を受け継いで発行する。

1881827

  これより、新潟県下の遊説(827-927)に出る。午後3時に北魚沼郡小出島に到着し、北町須田佐田郎方に泊まる。午後7時から同所の正園寺にて三木実、佐伯剛平、草間時福などとともに聴衆七百人の前で演説を行う。演題は「厭制政府は何を??みにするか」

1881828

  「国会開設後の宰相は如何なる人を要するか」を『国友雑誌』(31号)に掲載する。

1881828

  午前9時より懇親会がもたれる。午後7時より小千谷町の成就院にて「分権論」と題  して演説をする。

1881828-9

  討論「決闘(是認)論」を『国友雑誌』(3132号)に掲載する。

1881829

  十日町根津五郎方に泊まる。

1881830

  同所の来訪寺にて演説をする。題目は「財政と外交とは動もすれは政府をして困難に  陥らしむ」である。その他の弁士は、高橋守身、桑原重正、三木実、滝沢勘三郎、佐伯剛平である。午後8時よりは懇親会がもたれる。

188191

  午後2時、見附町に赴く。

188192

  午後8時より同所の智徳院にて「明治政府の主義は何乎」を演説する。その他の弁士は、刈田儀一郎、三木実、草間時福、滝沢助三郎、佐伯剛平である。また、午後2時には長岡町にゆき、渡町の旅館に泊まる。午後6時より、柳月座にて「財政と外交とは動もすれは政府をして困難に陥らしむ」を演説する。その後、「干渉教育と自由教育の利害」について討論会を行うが、馬場辰猪が出題者となる。

188193

  午後2時、三条に着く。

188194

  午後3時より、一口木校にて「厭制政府最後之手段」と題して演説を行う。その後、「賭博を禁するの利害」について討論する。

188195

  午前6時に三条を出発し、午後2時には新津に着く。同所の菓城寺において、聴衆一千  人を相手に「自治論」と題して演説を行う。

188197

  午前10時に新津を発ち、午後2時には水原南新町の折居忠平方に着く。同所の長楽寺  において「外交論」と題し演説をする。終了後、精義社の社員と親睦会を開く。

188198

  午前8時に同所を発ち、正午に新発田下町高橋次郎方に着く。同所の寺町の蓮昌寺に  おける懇親会に出席する。散会後、田所町の長徳寺にて「競争論」と題して演説。

188199

  午前7時より演説「主治者は何を注意すへき乎」をする。その後、村上に向かう。午前730分同所に着く。小国町滝沢国平方に宿をとる。直ちに、演説会場に赴き「世論の成長」と題して演説。

1881910

  午後1時より「内閣責任論」の演説。 終わって、懇親会に参加する。午後5時には宿に帰る。

1881911

  早朝に村上を出て、午後3時には中条に着く。直ちに、懇親会会場に駆け付ける。散会後、「犠牲論」の演説を行う。午後10時には閉会。

1881912

  午前8時に出発し、午後6時に新潟港に着く。古町通りの若林清吉のもとの宿をとる。  新島滋養館において立食の供応あり。

1881913

  午後3時より古町八番町湊座において「元老院果して有益か」と題して演説を行う。

1881914

  暴風雨にもかかわらず、湊座にて「盗賊論」をぶつ。その後、「琉球を日支両属と為すか将取て戦ふか」について討論会を持つ。終了後、浜の行形亭において懇親会あり。

1881915

  午前7時に新潟を出発し、午後1時巻村に到着し同所の妙光寺にて「専制の習慣を消滅するは人民の気力にあり」を演説。また、「徴兵令を廃するの利害」を討論。閉会後、苗木又平方において懇親会あり。

1881916

  午前7時、燕町に向かって出発し、10時同所の専養寺にて「過激論」を演説。午後1時にはそこを立ち、地蔵堂に向かう。

1881917

  午後4時半に地蔵堂に着く、直ちに同所の喜遊座にて「地方官の義務」と題して演説  を行う。

1881918

  早朝地堂をたち、午前8時には與板に着く。若竹座にて「政党論」を演説。出雲崎に向かう。午後7時に着き、多聞寺において「苦楽説」を演説。午後10時に閉会し、土地の有志と懇親会を持つ。

1881919

  柏崎に向け出発。午後7時に到着。同所の下町西福寺において「習慣論」をぶつ。  その後、懇親会があり。席上、西巻さく女が男女同権論を述べ女子教育の必要を訴える、馬場辰猪も賛成の演説。

1881920

  早朝、柿崎を目指したつ。午後2時半には着く。善導寺において「情実論」の演説。8時より懇親会あり。

1881921

  東頚城郡安塚に向かって発ち、同地にて演説。

1881922

  安塚を発ち、午後2時には直江津に着く。光明寺にて演説。6時に閉会し、その後、懇親会をもつ。

1881923

  直江津を出発し、午後1時には能生に着く。演説後、懇親会あり。

1881924

  糸魚川に着き、善導寺において、聴衆1000人を前に演説する。

1881925

  高田に着く。

1881926

  同所の田端町の大漁座にて「国会開設後政略に最大関係を有する部分は何か」の演説  。

1881927

  午前より演説会。「策略論」と題し、聴衆3000人を相手に演説。

1881108

  東京で演説「国会開設後の内閣は如何なる組織を要するや」

18811015

  馬場辰猪、秦野重太郎、豊川良平、大石正巳、谷正猪、斎藤修一郎が発起人となって、  三菱商業学校の校舎を借りて、夜間授業の明治義塾を開く。当時、慶應義塾の資金繰りに苦しむ福沢諭吉が政府に貸与を申し出た際に「三菱(商業学校)は…義塾の分校のようなものである。その分校には政府から(海運助成策などによる三菱への間接的)補助があるのに、本校たる慶應義塾には何もない」とうらやんだといわれる。

18811016

  明治23年の国会開設が決まるとまもなく、それ以前からあった国会期成同盟会員は、その組織を改め自由党と称す。自由党の名は植木枝盛の「民権の拡張は国民の自由の要求にある」との考えによる。自由党結成大会において(副)議長に選ばれ、会議の運営に当たる。東京で自由党創立の会議が開かれ、「自由を拡大し、権利を保全し、幸福を増進し、社会の改良を図る」の理想をかかげ発足。各派合同の懇親会および演説会が東京でもたれる。馬場辰猪も出席。

18811017

  自由党大懇親会が開かれ、翌日から政党組織の本会議が開催される。

18811018

  東京で演説。

18811026

  18 日からの政党組織による本会議が開催され、国友会は同日から結成に参画し、馬場が副議長(議長は後藤象二郎)となり議事を主宰した。この会議は連日の如く自由党結成総則・党盟約・規則を審議して、この日に終了。

18811028

  次いで、自由党は井生村楼にて相談会を開き、役員の選挙を行う。紛糾の後に板垣退助が総理となる。また、中島伸行が副総理、常議員に後藤象二郎・馬場辰猪・末広重恭・竹内綱、幹事に林包明・大石正巳・林正明・山際七司・内藤魯一が選ばれる。中江兆民・植木枝盛などと共に、活発に進歩的理論を述べて自民党の発展に参画。当時の自由党は、国会開設運動を背景とし、土佐派を中心に現状に不満な士族・地主・農民らを基盤とする全国的組織であったといえる。

18811029

  自由党が創立される。

18811112

  東京で演説「神経病の結果」をする。

18811210

  東京で「盲唖論」と題し演説。

188112

  演説と討論 「議院は必ずしも二局を要せず」 を『国友雑誌』(3637号)に掲載。  そこで一局議院論を展開する。

1881年末

  熱海の赴き、激しい関節炎に侵される。

1882年(明治15年)110

  『朝野新聞』に「言論の自由は年と共に狭まる」の記事あり。

1882118

  昨年末から関節炎に悩まされるが、そのため、熱海に湯治に行く。しかし、その最中に病気になり、この日、横浜の十全病院に向かい入院。

1882318

  朝野新聞の客員となり、民権運動の啓蒙に貢献。22日付けの『朝野新聞』に客員  の署名が見られる。

1882424

  東京帝国大学付属病院に移る。

18824月末

  弟の喜久衛死去する。

1882530

  病気は全治し、退院。

1882612

  板垣退助総理の上京を機として自由党の臨時大会が、午前9時より井生村楼にて開かれる。各地の委員が集会し、90余名に及ぶ。馬場辰猪は議長に当選するが、自由新聞の発刊があり辞退。片岡健吉が議長となる。午後4時より同じ楼にて、議員をはじめ党員の懇親会が開かれる。

1882622

  「外教侵入の利害」を『国友雑誌』(46,47号)に掲載される。

1882625

  自由党の機関紙『自由新聞』が創刊され、馬場は主筆社説掛になる。月給は70円、原稿料として別に1日分6円の約束を受ける。なお、大石が社主、西村玄道が印刷長となるなど国友社員が主要な構成体である。

1882628

  「政党の恐る可きものは何ぞ」と題して演説を行う。

1882630

  自由党は京橋警察署に執ように召喚され、ついに政党を自認し、正式の届け書(盟約  書、党則、党員名簿)を提出。党員名簿には板垣退助の名の次に馬場辰猪の名あり。78日に認可される。

1882712

  628日の演説を『朝野新聞』(2624号)に掲載される。

188271-86

  『自由新聞』(227)に本論を19回にわたって執筆。ここで、馬場辰猪は社会の組織と発展の方向を述べ、自由主義の意義を論ずるが中途で終わる。

1882718

  「内乱の害は革命家の過か」と題して演説を行う。

1882721-22

  井生村楼での演説「内乱の害は革命家の過にあらず」を西河通徹が筆記し『自由新聞』  (21-22)の社説としてのせる。

188292

  栃木町での演説を西河通徹が筆記し『自由新聞』の社説として無題で載せる。要旨は、  政治家は社会の将来について洞察力を持たねばならないである。

1882923

  「専制政府の衰退を論ず」と題して演説を行う。

1882928

  板垣退助総理の外遊計画に後藤象次郎や大石正巳とともに反対。「板垣は、自分の愚劣な行動の説明に窮すると、ヨーロッパを見聞したいとか、異なった政治家や思想家と交際したいとか、要するに根拠が薄弱でわけのわからないいいわけを持ちだした。」この抗議のため『自由新聞』社員の職を退かされる。

188210

  「専制政府最後之手段」を『演説撰誌』の10月号に掲載される。

1882107

  「自由新聞を退社し離党、演説会を主催。唖盲論、内閣を組織するの難を論ず」と題して演説。その後、「患者が決心を求むる時は医師立会の上其求めに応すべしと律書に明文を掲ぐるの可否」と題して討論を持つ。馬場辰猪は発議にあたる。

18821021

  「蝮蛇論」討論発議「国会の議場に於て質問を受るときは説明を拒むの権を宰相に与  ふるの可否」

18821026

  「専制政府最後之手段」を『演説撰法』(第7号)に載せる。

18821031

  107日の討論は『国友雑誌』の1011月号に掲載される。そこで、馬場辰猪は安楽死を肯定する。

18821111

  「加藤弘之君の人権新説を読む」を井生村楼の国友会演説会において述べる。

18821112

  板垣退助は後藤象二郎、今村和郎とともに横浜を発ち、フランスに向かう。おおくの  自由党員が見送るが、馬場辰猪らは見送らず。

18821117-123

  1111日の演説を『朝野新聞』に掲載。

18821118

  「内閣組織の至難を論ず」を『国友雑誌』(54号)に掲載。

18821125

  「主治者の策略は人民の世論を変ずるに足るか」

18821119

  「怨悪論」を『国友雑誌』(56号)に掲載。人民が政府に離反する原因を述べ、国会開設を延ばすべきでないことを主張。

1882129

  「怨悪論」

1883年(明治1616

  名古屋にて催された関西自由党親会の席上で演説。

1883117

  同上。

1883118

  これまで天賦人権論の立場から国民の自由と立憲政の重要性を説いていた加藤弘之が、公然と自説を覆し新たに優勝劣敗という進化論から権利自由の要求を抑えようとした。これに反駁するため、『天賦人権論』(著者兼出版人、東京京橋区日吉町壱番地馬場辰猪、四六判79ページ)を著す。馬場はこの本の中で植木よりも一層激しく加藤の『人権新説』に異議を唱えた。

1883127

  「司法上の害を防かんと欲せば先ず宜しく立法上の害を防ぐ可し」討論の発議にあた  る。題は「相続法を制定し死者の不動産を其数子へ平等に分配する可否」

1883210

  「物事の軽重を定むるは如何なる基礎によるか」

1883223?????? 22どちらか

  10日の演説筆記が『朝野新聞』(2802号)に掲載される。これは福島事件の処分に対  する意見を述べたものである。

1883224

  「政事家は事物の一部分を見て之れが判断を為す可からず」

1883331

  「羞膳の説」「開化国は強て未開国を開くの権あるか」の発議者となる。

18833-4

  討論「国会に於て質問を受くるとき説明を拒むの権を宰相に与ふるの可否」が『国友  雑誌』(62 62号)の34月号に載る。外交問題においては、場合により拒絶権を認める。

188347

  演説を行う。この演説が「集会条例」の適応を受ける。

1883411-17

  所沢、千葉県の大多喜、勝浦、大原などを遊説。

1883年(明治16412

  東京での政談演説を今後6か月間禁止するよう警視総監より通達あり。

????? 東京府士族?????? 馬場辰猪

其方儀自東京府下に於て公衆に対し政治に関する講談論議禁止候事

?????????? 明治十六年四月十二日??? 警視総監  樺山 資紀

後藤象次郎が土佐の人々を高輪の自邸に招いて宴会を開いた際に、馬場辰猪は演説をし、今日の宴会は誠に喜ばしき事のみなれども、ただ一つ殺風景なるものあり云々と言って攻撃を加えたので取っ組み合いとなる。

188351

  神田錦町の明治義塾内に法律研究所を設置し、この日より学生が入学。馬場辰猪(イギリスの法律に詳しい)と高橋一勝(フランスの法律に詳しい)と武山助雄(現行法に長けている)が講習にあたる。

1883526

  討論「婚姻の年限を定めるの可否」

188369

  討論の題は「婚姻の年限を定めるの可否」

1883年(明治167

  板垣退助総理の外遊(622日には欧州より帰国)計画に、後藤象次郎や大石正巳とともに反対。「板垣は、自分の愚劣な行動の説明に窮すると、ヨーロッパを見聞したいとか、異なった政治家や思想家と交際したいとか、要するに根拠が薄弱でわけのわからないいいわけを持ちだした。」

188391

  政府の転覆を企てたとされる福島事件の判決がでる。福島事件は内乱罪と判決され、  河野広中は軽禁獄7年の判決となる。

188398

  自由党の政策に関し意見が合わず、大石正巳、末広重恭とともに自由党を脱党。  馬場は自由民権運動にもっとも理念的に参加してきたが、彼の政治思想は余りにも理  想主義的であり、現実の政治についてゆくことができなかったといえよう。

1883915

  神田錦町の明治義塾の法律講習所はすでに有名になり、生徒も日増しに多くなってい  たが、高橋一勝、大石正巳とともに法律事務所の詞訴鑑定所を京橋五郎兵衛町十四番地に開く。昨今の代言社会の改良を目的としている。

1883917

  板垣外遊の反対を決議し、末広重恭とともに資金の出所を追及。

1883923

  井生村楼において、末広重恭が「独立政党の必要なるを論ず」という題で演説。馬場辰猪もその演説聞いたを思われる。

1883106

  国友会学術演説会にて、「信用の説」と題して話す。

1883109

  「信用の説」を『朝野新聞』(3002)3回の連載。そこでは、英語の belief について述べる。

18831012

  「集会条例」による禁令解かれる。

18831019-21

  「信用の説」が『朝野新聞』にのる。

18831027

  「政治社会の改良は政治思想の改良にあり」

18831028

  横浜の鳶座にて、国友会演説に持たれ、「横浜人民は政事上に向って如何なる主義を  執るべき乎」という題で演説。

18831110

  「少壮政事家が有する政治上に対する責任如何」

18831111

  横浜の湊座にて「商業社会が政党に対して有する関渉如何」

18831124

  10日と同じ。

18831128

  学術演説会にて「静動之説」

1883125

  浜町東華桜草久松座「政治家が政党の境外に対して有する責任如何」

1883128

  「少壮政治家が有する政治上の責任如何」

18831216

  学術演説会にて、思想の不滅を論ず。

18831222

  「支那国に対する政略如何」討論「婚姻の契約に年限を定むるの可否」

18831225

  1023日「演説討論政談会」での馬場の「外交論」の演説筆記が『嚶鳴雑誌』(第26号明治131225 日刊)に掲される。結論として英国議院に対する条約改正への「全国人民の与論を以てす可し。而して其与論を以てするの方法に至ては他なし,即ち国会を開設し全国人民の代議士たる所のものの決議を以て之を請求す可きなり」との具体策を提言。

1884年(明治14年)15

  「虚実の説」

188418-9

  「思想の不滅を論ず」を『朝野新聞』(3065-6)に掲載。

188419

  「『国友雑誌』を単行書形式に改めて、『国友叢談』の第一篇を発行。それに、「政党の弊害を改良するの法策如何」「スペンセル氏哲学論」また、討論「婚姻の契約に年限を定むるの可否」を掲載。ただし、この本は第一篇のみで終わる。

1884110

  山本忠礼と共に名古屋に向かう。

1884115

  名古屋で愛知交親社主催の全国民権家懇親界が催される。目的は独立政党の結成のた  めで、馬場辰猪、大石正巳、山本忠礼が出席。「習慣の弊害を論ず」「政治家が政党境外に対して有する責任如何」と題して演説。

1884120

  帰京。

1884126

  政党衰退の原因は如何

188429

  「政事家は如何なるときに於て進取の挙動をなすへき乎」の演題にて演説。

1884216

  「事物の改良は如何なる時に於て為すべきか」

1884223

  9日の演題にて演説。

188438

  「政事家は如何なるときに於て進取の挙動をなすへき乎」の演題にて演説を行う。

1884315

  「暗黒論」

1884320

  法律演説会「羅馬律沿革を論ず」

1884322

  「38日の題」

188441

  盟友の大石正巳は1年間全国内において政治を講談論議することが禁じられる。

1884412

  「有形物と無形物との競争を論ず」

1884426

  「外交論」

1884529

 ? この日付で、いわゆる相馬事件に関連して福沢諭吉より書簡をもらう。

1884628

  「思想の説」

1884716-19

  「思想の説」を『朝野新聞』(3209-11)に掲載。

18841227

  演説禁止後は著作活動に入るが、加波山事件に関して「露国虚無党の利器と称する所のダイナマイト」に着目。しかし、この日、「火薬取締規則」ができ人民においてダイナマイトなどを製造することが禁止される。

188547-15

  「東洋気運の説」(仮題)を『朝野新聞』に掲載。

18858

  『雄弁法』を刊行。

188510

  箱根の福住楼に逗留し、「自叙伝」の執筆を始める。この年は前年末からの経済不況と自由党員にようる過激な事件(福島事件、秩父事件、名古屋事件など)が頻発したため、政府の取り締まりが強化され、あまり活動が出来ない。

18851116

  大石正巳とともに、 渡米の支度を整えるために横浜に行き、山手の外人居留地48番館在住のイギリス人ジェームス・ピー・モリソン商会に立ち寄り、ダイナマイトの効用・使用法・代価を聞き、鉱山用に使うからと言って買い入れ手続きなどをたずねる。モリソンは日本政府の規則に従い通告をするが、馬場と大石はともに偽名を使ったまま立ち去ったことが分かる。

18851124?? または21

  尾行の巡査からこのことを聞いた警視庁によって、大石正巳氏とともに爆薬その他の  凶器を購入したとの嫌疑をかけられ、爆発物取締規制違反の疑いで検挙される。冤罪を被り7箇月間投獄される、このため大いに健康を害す。

1886年(明治1928-427

  結核が悪化し、監獄病院に入院。

1886425

  交詢社の第7回全国大会における常議員選挙で拘留中の馬場辰猪は落選。

1886427

  監房にもどる。

1886528

  第1回公判がもたれる。弁護人は増島六一郎、高橋一勝、渋谷、元田肇、岡山兼吉、佐伯剛平であり、係り判事は葛葉正包、検事は川淵龍起である。

188662日 

  証拠不十分として、無罪放免される。

1886612

  釈放の10日後12日の10時に、大石正巳とともに横浜を出港し、アメリカに亡命的に渡航する。

1886613

  アメリカ人の知日家イースト・レーキに紹介される。

1886627

  サンフランシスコに到着。

1886627

  到着後すぐ、この日付で福沢諭吉あてに書簡をしたためる。

1886731

  福沢諭吉より、この日付で書簡を受け取る。「六月廿七日の貴翰、草郷氏より届け参、拝見仕候。先づ無御滞御着港のよし、目出度奉存候。長々幽囚後の航海、途中如何哉と御案じ申候処、何の御障もなかりしとは実に欣喜に不堪、家内一同より宜敷申上呉候様申聞候。」日本は条約改正内地雑居内決に、加ふるに東海道には鉄道出来致、人心は賑々敷相成候。慶応義塾も本年秋より大に改革して多く外国人を雇入、教場都て英語を用ひて日本語を禁ずる位に致候積にて、昨今其計画中に御座候。講堂もブリキハウスを作る積にて、中村道太君より金壱万円寄付致し、これに加へ足して来年夏までには出来可申存候。右御返事旁申上度早々如此御座候。頓首。 十九年七月三十一日?????????????????????? 諭吉  尚恐るべきは病なり。幾重にも御用心被成度、是のみ所祈候。」サンフランシスコやオークランドを中心に活動し、日本の甲胄について講演するための勉強や広告に苦心する。

1886115

  オークランドのオペラ・ハウスにて「日本古来の武器と甲冑」について講演をするが、  失敗。

18861114

  アメリカの東部に出発。

18861121

  ニューヨークに移り、翌年2月末まで滞在。

18861124

  「日本監獄論」の草案できる。

18861230

  ロンドンのトリュブナー社に手紙を書き、第2版のために『日本語文典』原稿を送る。

1887年(明治)12

  ヘンリー・ピーチャーの説教を聞く。

188721

  大石正巳が訪ねてきて、イギリスに行く旨を告げる。

1887224

  アメリカ・インスティチュートで、聴衆250人を前にして講演し成功を納める。

1887228

  フィラデルフィアに移る。

1887517

  ワシントンの人類学協会での講演が成功し、多くの友人を得る。

1887625

  英文で “In a Japanese Cage” をワシントンの Evening Star に掲載し、監獄の改良を  訴える。

1887629

  ホワイトハウスで大統領のクリーブランドに合い、日本公使官で九鬼隆一に面会。

1887111

  日本の民衆運動に関する英語の論文 “The Japanese” をボストンの Daily Advertiser?? ??に掲載。

1887117

  数編の文章を日本に送る。

18871118-19

  扇子4本を3ドルで、所蔵の小説本すべてを1ドル50セントで売却。

18871130

  明治10年から大隅重信の支援で英字新聞『東京タイムス』を発行していたハリス (E.??? T. Harris) が、馬場辰猪は信頼できないと発表。

18871222

  執筆中の The Political Condition of Japan では、日本政治の得失や監獄改良説などを論述。その中表紙にローマ字で、「頼むところは天下の世論、目指す敵は暴虐政府」と入れることを決める。このことばこそ、当時の馬場の心境を如実に物語っている。

1888年(明治21419

  英文「Bへの答え」を Christian Union に掲載。

1888428

  病気が悪化し、医師の診察を受ける。

1888430

  在米の東洋学者が「東洋クラブ」を設立すべく、フィラデルフィアに集まる。その会に馬場辰猪も参加したもよう。

1888522

  転地治療のためアトランティック・シティに行く。

  以後、フィラデルフィアとの間を往復する。

  駐米全権公使であった陸奥宗光を訪問。

1888725

  英文「悔悟」を Scribners’ Magazine に送る。

1888年秋

  The Political Condition of Japan (1888, Philadelphia) を刊行。また、『日本文典初歩』の改定版を出す。本文に若干の改訂を加え練習問題を20題加える。

18889

  肺病にかかり、フィラデルフィアの病院に入院。

1888113

  フィラデルフィアのペンシルヴァニア大学病院で死す。享年38歳。最期を看取ったのは、岩崎久弥と林民雄だった。

1888116

  フィラデルフィアのウッドランドセメトリーに埋葬される。また、上野の寛永寺谷中墓地にも、墓碑がある。

1888

  英文日本監獄論 The Prison in Japan 刊行される。

1890年(明治221

  山本忠礼・明石兵太郎によって『条約改正論』の翻訳が出る。

1897年(明治29)年112

?  馬場辰猪の没後8周年祭が、谷中天王寺においてとり行われた。福沢諭吉も参列したが、この追弔詞は犬養毅が代読した。「今を去ること凡そ三十年、馬場辰猪君が土佐より出でゝ我慶応義塾に入学せしときは年十七歳、眉目秀英、紅顔の美少年なりしが、此少年唯顔色の美なるのみに非ず、其天賦の気品如何にも高潔にして、心身洗うが如く一点の曇りを留めず、加ふるに文思の緻密なるものありて、同窓の先輩に親愛敬重せられ、年漸く長ずるに従て学業も亦大に進歩し、後英国に留学して法律学を修め、帰来専ら政治上に心を寄せて多少の辛苦を嘗め、其学識雄弁は敢て争う者なくして自から社会に頭角を現はしたれども、時勢尚ほ可ならずして君の技倆を実際に試るの機会を得ず。明治二十年再び航して米国に遊び、居ること一年にして病に犯され、客中不帰の客と為りたるこそ天地と共に無窮の憾なれ。君は天下の人才にして其期する所も亦大なりと雖も、吾々が特に君に重きを置て忘るゝこと能はざる所のものは、其気風品格の高尚なるに在り。学者万巻の書を読み百物の理を講ずるも、平生一片の気品なき者は遂に賎丈夫たるを免かれず。君の如きは西洋文明学の知識に兼て其精神の真面目を得たる者と云ふ可し。吾々は天下の為めに君を思ふのみならず、君の出身の本地たる慶応義塾の為めに、特に君を追想して今尚ほ其少年時代の言行を語り、以て、後進生の亀鑑に供するものなり。君の形体は既に逝くと雖も生前の気品は知人の忘れんとして忘るゝ能はざる所にして、有年の後尚ほ他の亀鑑たり。聊か以て地下の霊を慰るに足る可し。明治二十九年十一月二日       福沢諭吉払涙記」福沢諭吉、荘田平五郎、金子堅太郎、田口卯吉、渡辺洪基、中上川彦次郎、矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅、中江兆民、大石正巳ら福沢に連なる140名ほどが参列した。

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【註】澤大洋「三田政談社及び国友会の結成?馬場辰猪の政治行動を中心として−」(『東海大學紀要』政治経済学部 16, 57-105, 1984)を大いに参照しました。

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